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  • Kaori Nakao

ごめんね神話

 Telacoyaの保育を追求する為に、鎌倉と葉山の両園のスタッフで勉強会を開いた。

「食の勉強会」と「保育の勉強会」直接参加もリモート参加もOKにして。


 みんなでいろんなことを共有することは、保育をチームで行うにはとても大切なこと。


 ただ正解を聞くのではなく、あーでもない、こーでもないと話すことがとても大切。


 そんな中で出た「ケンカの見守りはどこまで?」というお題。

 

 基本的にうちはケンカを止めない。そして、大人がジャッジしない。これが鉄則である。


 例え1歳児でも、止めない。5歳児なら当然止めない。止めるのは寸止め。致命傷になるようなケガになるようなことを防ぐことは必須。この寸止めが難しい。早すぎると、子どもたちの学びのタイミングを奪ってしまうし、遅すぎると、ケガに繋がってしまうこともある。  寸止め出来るようにどうしておくべきなのか!?これが結構重要である。


 これはとても微妙なタイミングだし、その時のケンカの様子や年齢や前後の様子が加味されるので、一言では言い表せない。でも、スタッフの間でその微妙な間合いが共有されていることが、たくさんの事例を出してくれたお陰で確認出来た。  大人がジャッジしないことについても、確認が出来た。なぜジャッジしないのか?も。


 ケンカの当事者は子どもたち同士である。

 ●●ちゃんが先に持っていたのだから、、、、とか  ▲▲ちゃんが長く使っているから、、、、とか

 ✖︎✖︎ちゃんは奪ってもどうせそこらにポイッとしちゃうから、、、とか  ■■ちゃんが泣いたから、、、、とか  とかとか。。。。  当事者の気持ちなんて関係なく、大人がジャッジするのは、余計なお世話である。


 大人が出来ることは、どちらの気持ちにも寄り添うこと。


 「どうしたかったの?」

 「どうしても使いたかったの?」  「取られて嫌だったね?」

 「まだ使っていたのにね〜?」  「取られちゃった●●ちゃん どんな顔してる?」

 とかとか。


 基本、質問攻めである。どちらの気持ちも本人じゃないと分からないから、聞くしかないワケである。勝手に決めつけるなんて、たまにあたるときあるかも知れないけれど、なんともおこがましい話である。本人にしか、当事者にしか、絶対にわかるワケないんだから。


 ここまではTelacoyaのスタイルを共有出来ていることも分かったが、、、、


 一つ疑問があり、問いかけてみた。


「ごめんね」って言わせていないかな?と。


 たまに、大きい方の子どもたちの揉め事の際、「●●ちゃんがごめんねって言ってくれない!」とプンプンしていたり、「▲▲ちゃん!!もうごめんねって言ったじゃん!!」とか言っているのを聞いて、いつから「ごめんね」って言葉は、これさえ使えば無罪放免になる言葉になったんだ???と疑問に思っていたからだ。  何か揉め事が起きて、加害者だと感じた方が「ごめんね」って言う。すると被害者だと感じた方は半ベソ顔で「いいよ」って言う。  おいおい!本当にいいんかい??納得してるのかい?  そもそも、ごめんねって使うように教えたのは誰だい?

 その使い方はあっているのかい?


【ごめんね神話】  ある地方では、ある言葉を使うと争いが鎮ると言う言葉が代々伝えられておりました。

 その言葉は「ごめんね」です。

 これを使えばあなた!あら不思議!

 どんなに怒り狂っていた人も、もう「ごめんね」言った人には何も言えないのです。

 どんなに言いたいことが山ほどまだまだあったとしても、早めに「ごめんね」を使われた

 らあら残念。

 それ以上言うと今度は被害者だったのに「ごめんねって言ったのにしつこい」と言う

 レッテルさえ貼られます。 

 この地方には、気持ちを話し合うと言う文化が無かったのかも知れませんね。。。

 

 人の心はそんなに単純なのか????  ごめんね一つで、何もかも鎮めて封じ込めて良いのか???  まだおしゃべりも出来なかったり、上手に会話が成り立たない年齢の子どもたちにとってとても大切な「人との関係」を築き上げる「ケンカ」と言う素晴らしい経験。ここで、すぐに大人がシャシャリ出て、一人ひとりの気持ちに寄り添うこともなく、ジャッジをした上で、ごめんねを強要させてしまうのと、黙って寸止め準備をしてケンカの一部始終を見守り、その上で一人ひとりの気持ちに寄り添って共感して、その上で相手の表情を見るような働きかけをするのでは、子どもが吸収するものは全く違ってくる。  おしゃべりが上手じゃない年齢の子どもたちが一番シンプルに私たち大人に教えてくれる。

 物の取り合いになり、奪い取った子が相手の表情を見て、また手を上げた時、寸止めの為に身構えるものの、その手は相手の子の頭をナデナデする!と言う場面に何度となく出会っている。同じく奪い取ったものの、相手の子が泣くと、奪った方の子まで泣いたり。その泣き声に大人が見ていることに気づくと、奪った方の子が泣きながらも高速で相手の頭をナデナデしたりする。  これこそが「ごめんね」の代わりの心の行動である。  心からの思いで使わなければ「ごめんね」と言う言葉に意味はない。  大人が「謝らせた」と言う満足の為に、教えて使わすことのないように心から気をつけて行きたいと言うことが共有出来た有意義な勉強会になった。

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