- Kaori Nakao
どっちでもいい
私の運営しているTelacoya921という認可外幼稚園では、縦割り保育の中で、子どもたちが主体となって毎日が過ごせるようにしている。毎日の散歩の行き先は年長児が決めるし、下の子のお昼のお手拭きを全員分濡らして絞って山や海まで運ぶのも年長児のリーダーの仕事。これは結構な重さにもなる。夕方の廊下の掃除、トイレの掃除、おやつの後片付けなど他にもたくさん年長児には仕事があるが、その分、年長児だけが好きなように決めて、好きなことを一日中して良い日があったり、自分たちで自己責任において自己完結出来るからこそ、信じて任せている。
そんな年長児は散歩の行き先を決める話し合いの時も、自分が「行きたい」ところ、誰かが「行きたい」ところ、それにプラスして自分より小さい人が「行ける」ところを加味して考えている。もちろんまずは自分の行きたいところがしっかりと言えることが大切だ。
ここでは、話し合いの総意で決まったことを大人に伝えることにしている。「どっちでもいい」「ジャンケンで決める」「多数決で決める」という決め方は無い。それは最初からルールとして設定したのではなく、そうあって欲しいと思っていたので、くじ引きで決めたりすることも経験としてやってみて、それが楽しい時もあれば、思いがあって話し合いを重ねて納得して決めた方が気持ちが良いことも経験してみて、子どもたちがどっちを選ぶのかなと見ていたら、毎回くじ引きにしようとは言わなかった。
そこで、話し合いで決めることが当たり前になっていったので、逆に言えば他の方法を使う術を知らないところもあるのかも知れない。また、全員の総意でとは伝えてあるので、意見を言わない子がいると、尋ねられる。どっちでもいいと言われることがまず無い。
大きい幼稚園にいた頃は、何かを決める時に、どっちでもいいと答える子が多かった。それが私はあまり好きではなかった。本当にどっちでもいい時もある。どっちでもいいという答えを使う時、大人は周りの皆さんに気を遣ってのことだったり、誰にでも合わせますよ〜と態度を表すものだったりする。 しかし、反面、考えることさえもしないで、投げやりで誰かに決めてもらったらそれでいいという風にも捉えられる。
そのくせ、後から文句の一言でも言おうものなら、「どっちでもいいって言ったよね!」と念押ししたくなる。
何も邪念のない子どもたちにとっての話し合いの環境。まずは自分の意見を持ち、それを誰でも言っていいのだという環境の中で、思い切り言い合うことから始められるという素晴らしいものなのだ。
大切なのは、「話し合う」とはどういうことなのか?を理解すること。
たくさん話すことが上手な人の意見だけ通るのは、どうなのか? 黙っているけれど、自分の行きたい場所がある人はどうしたらいいのか?
年長児全員の総意で決める。たかが10人の意見とは言え、これを一つにするのは
どうしたらいいのか?
これをたくさんたくさんそれこそ毎日積み重ねて、積み上げて、数年かかって上手になってくる。年長児になってから始めるのでなく、年少児の頃から「みんなで話してみようか」と大人が入って「みんなが話す」という場を作っていく。 その結果、自分のことだけでなく、他者の意見も受け止めて、良い意味で折り合いをつけて行くことが出来るようになる。
どっちでもいいと言ってただついてきたのではなく、本当は違う意見だったけれど、話し合う中で折れてくれたり、納得してくれたり、理解してくれたり、という、ここまでの辿ってきた道を共有している。
中学校の職業体験で中学生が毎年来る。その生徒を追って中学校の先生も毎年来る。この話し合いに毎年感心して帰って行く。中学生からでは難しいというのだ。
意見なのに何故か正解不正解を当てはめてしまうことがあったり、誰かの意見を茶化したり、あとで笑いのネタにしたり、それが思いの外、本人には響いてしまったりするのだろう。そういうことを経てきた子どもたちは、人前で意見を言わなくなって言ってしまう。
誰かの顔色見ながらのどっちでもいいになってしまう。 幼少期のうちに!それでも自分の意見を言った方が気持ちいいし、誰かの意見の方が良かったら、気持ちよくそっちにスイッチすれば良いし、自由に風通しの良い意見交換の経験をたくさんしておけば、その先、その経験が風通しの悪いところに身を置いたとしても、風通しを良くしようとする側になってくれたらいいなと心から願っているのである。