
Kaori Nakao
なぜ?って聞いちゃいけないの?
学校とは、何を教えてくれるところなのだろうか?
「子どもたちのために」と言う大義名分はあるけれど、、、、受験のための勉強。文科省が決めた子どもに必要だと思われる勉強。義務教育って言葉がまた何に対しての義務なのか。 主語が子どもが知りたいことを教えてくれるのではなく、大人が教えた方が良いと思うことが教えられている。教えなくてはいけない場所になっている。
戦後の教育変えなきゃいけない時なんじゃないのかな?
子どもは「なぜ?」「どうして?」の塊のはず。それに答えるのが大人なのでは?
随分前におしゃべりが出来るようになった2歳児にももたろうのお話読んでいたら、、、
「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました」
「なんで?」
「なんでだろうね?そこが好きで住んでいたのかな?」と若干流しつつ先に進むも、
「ある日、おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました」
「なんで?」
「おじいさんのお仕事は山に行くことで、おばあさんはみんなのお母さんたちみたいにお洗濯するのがお仕事だからかな?」
「そこに桃がどんぶらこ〜どんぶらこ〜と流れてきました」
「なんで?」
こんな具合でちっともお話が進まないことがあって大笑いだった。
そりゃそうだ。私からしたら何百回読んだか分からない桃太郎のお話も、お初の人にとっては、不思議で仕方ないだろう。
なんなら見えているもの全てが初めましてだし、そこらじゅうが不思議の塊だろう。 この大きい人間は何を口からペラペラと話しているのだろう?
この髪の長い大きい人間は声は男みたいだけど、女の人のような服も着ている。どっちなんだ??
お母さんがお料理しているところから、白いものがもくもく揺れているけど、あれは何だ?触ってみようかな〜アチッ!!何だ今のは!熱いじゃないか!!しかも触ったのに掴めなかったじゃないか!でも、もう一回触るのは止めておこう。さっきビックリしたから。 そんな小さい人の「何で?」の延長上に学校があるはずなのにな。
いただきます!と手を合わせる時にパチンと音を出したら怒られた。
何で?と聞いたら、しつこいと言われた。
いいから止めなさいと言われた。
こんな話を昨日卒園児から聞いたのだった。その昔の卒園児も「先生に質問が多すぎると言われた」と聞いたことがある。「次の授業は体育館で行いますから、●時までに体育館に移動して下さい」と言われて、体育でも無いのになぜかな?と思って「どうしてですか?」と聞いたら、いいから行きなさいと言われて、「何をするのですか?」と聞いたら、質問が多すぎると言われたと。 そんなに面倒臭いのかな?
いいから行きなさい これで9文字。
質問が多すぎる これで10文字。
次は●●をするからだよ これで14文字。
そんなに違わないけど。そう言う問題じゃ無いよね。
昔々の保護者に小学校の先生をしているお母さんがいた。そのお母さんの子どもは男の子でお猿みたいな子だった。それこそ、先生のお子さんなのに、、、、って言われそうなくらい自由にどこでも登っちゃうし、いないと思ったらロッカーやピアノの裏に入って、何か廃材でロボット作ってるし、極め付けはお泊まり保育の夜、布団にいないと思ったら、ジーコン、ジーコンってセロハンテープを切っている音がどこからかする。音の場所に行くと、月明かりの中で、やっぱりロボット作ってた。おもしろい子だった。
その子が卒業する時に、お母さんから手紙をもらった。
「幼稚園の先生はいろいろおありでしょうけれど、先生のオリジナリティが出せて自由で羨ましかったです。小学校の先生には自由が無いので、子どもたちに申し訳ないことも多くて、苦しいけれど、我が子を通して、自由な先生の下で子どもたちがどれだけのびのび過ごせるかを見たので、学校でも頑張ってみようとおもいます。」と言うことが書かれていた。 そのお母さんからは今も年賀状が届く。お猿みたいだった子は、ホテルマンになり、結婚して、子どもも生まれたそうだ。 小学校の先生たちも苦しんでいる。そんな国の教育で良いのか?
私だってやっていた。前ならえ!右へならえ!真っ直ぐキレイに並べることが追求されていたから。私のクラスはきちんと並べるクラスにしなくては!と躍起になっていた。
でも途中から変わった。私自身がおかしいと思ったから。
ぶつからないところに広がって〜でいいんじゃ無いの?
順番に物事に取り組んで欲しい時は、順番にやってねと声かけたら、子どもたち同士で出来るし、順番じゃなくてもいいなら、譲り合ってやってねと声かけたら、子どもたち同士で出来る。 そう、子どもたち同士で出来るのよ。
何度も言うけど、戦後の教育からもう変えないといけないんじゃ無いの?