
Kaori Nakao
ケンカする相手
この前、近所のおばあちゃんとちょっと立ち話の長話。
少し前に長年連れ添ったおじいちゃんを亡くしてから、この話ばかり。
「ケンカする相手がいなくて寂しいよ」って。
ケンカ出来る相手って貴重だ。
昭和生まれ育ちの私は(関係ないか?)小学校の時も廊下で男子と取っ組み合いのケンカしてた。それでも仲良しだった。昔(今もあるかな?)教室の廊下側の壁の下に小さなスライドの窓があって、廊下で取っ組み合いしながら、教室の方に転がり入ったり、また出たりしていたら、廊下に出た時、見上げたら先生の顔があった。なんてことはよくあった。
たくさん一緒にいたずらもしたし、たくさんおもろいこともした。そんな友だちとは、55歳になった今でも会えば大笑いをして当時を振り返ることが出来る。
でも、、、、
大人になるほど、本気のケンカは出来なくなる。
そこまでやり合う相手とは、やっぱり家族かな。一番わかって欲しいから、一番譲れないし、とことんまでやり合っちゃう。
最近は家族の中でも、夫婦でそこまでやり合わないで、諦めてると言う夫婦もよく聞くけど。親子はどうだろうか?これも諦めちゃっているのだろうか?諦めるのは子どもの方だろうか?親の方だろうか? おばあちゃんは、毎日ケンカしてたって言ってた。つまらないことでケンカしてたって。でも、ケンカしなければ良かったって、今まで一度も思ったことないって。それだけ安心してぶつかれる相手だったのだと。
他人とおじいちゃんと同じようなつまらないことでケンカしたって仕方ないって。 だから、ケンカする相手がいなくなっちゃってつまらないって。寂しいって。 別にケンカすることが良いとか悪いとかではなく、これだけちゃんと本気で向き合った相手がいるかどうかってすごく人生の中で重要な気がする。そして、その重要性は、その時よりも、その相手がいなくなってからの方がずっと感じるんだとおばあちゃんと話していて思った。
いつもおじいちゃんとケンカした話をしながら、ポロポロ涙をこぼして笑ってる。
最近は息子さんの後ろ姿がおじいちゃんの若い頃にそっくりになって、あれ?と勘違いしてしまうこともあるそうだ。それほど恋しいって。
その寂しさは辛いけど、人生の中でそんな相手がいたことで出来た身体の中の温かい場所があるから、その寂しさも思い出に変わっていくのだろうと思えた。 結婚していても、していなくても、誰かと恋をするというのは、一方通行だったり、どんなに思っても叶わなかったり、思われてもお返し出来なかったり、奇跡的に叶ったり。そんなたくさんの想いが人の心も成長させてくれるものだと思う。 そういう想いがキツくて、恋なんてしないと思う人も多いようだ。 でも、恋はしようと思ってするものではない。気付いたらしてしまっているものだ。だから、しないようにするということ自体が不自然なのだ。 若者よ!恋をして、そしてケンカが出来るくらいの相手を一生に一人でもいいから見つけるのだ!!とおばちゃんはおばあちゃんの話を聞いて、やっぱり思うのである。 やっぱり大恋愛は人間にしか出来ない大切な大切なことなのだ。