
Kaori Nakao
大人と子どもの「今」の違い
今日はおうちえんTelacoya921の2020年度の、そして第10回目の入園式だった。 もうとっくに入園しちゃった園児がほとんどだし、もうとっくに友だちと遊ぶの楽しくなっているし、もうとっくに園の生活にも慣れちゃっているけれど、ここは一つ大切にしたい式なので、年長児のおひさまと準備をして来た手作りの入園式に該当保護者をご招待して行なった。
「お祝いの言葉」で保護者の皆さんはじめ、みんなに伝えたこと。
この間、コロナで云々かんぬんはみんな承知の通り。そこで気づいたことを話した。
「今を生きている」子どもたちと「今だけを生きている」大人の違いかな。
普通は逆に感じるのかも知れない。
大人は先読みしてそこから逆算しての今を見る。まるで、そのことがさも大切そうに述べるので、今それをしないと、この先大変なことになってしまうような感覚になる。
けれども、その先読み自体が正しいのか?何を読んでのことなのか?分からないことも多い。それってただの先行きの不安な気持ちを今、たった今、埋めるためのものじゃない?と言うこともある。
その点「今を生きている」子どもたちは逆算こそ出来ないかもしれないが、不確定な先行きに向かっての「今」ではなくて、確実な「今」を生きている。生きられている。と感じる。
コロナが段々対岸の火事ではいられなくなった2月頃。今の1年生たちが最後の卒園遠足を楽しみにしていた。
毎年の如く、行き先から子どもたちで決めていく。行き先をどこにするかをまず決めるのに数週間。行き先が決まってから、行き方を調べたり、準備をしたりするのに数週間。何時の電車に乗って、どこで乗り換えて、、、、、と調べたものを頭に入れて、紙にも書いて、時代が時代ならば、子どもたちだけで行くのをこっそりとついて行って、盗撮したいような内容だ。
しかし、大人は苦渋の決断をしなければならない時期に重なっていた。
2月時点で分かっていたコロナのこと。それは今とは雲泥の差の未知のものだった。その中で、電車に乗って、この博物館へ行くことが安全なのか?正しいのか?と言う判断をせねばならない状況になって行った。 こんなに楽しみにしているのに、、、、
こんなに調べ上げて来たのに、、、、、
そんな想いを持ちながら、子どもたちに相談した。選択肢としては、中止と延期があること。延期の日程はいつになるか分からないこと。
すると、サラリと子どもたちは言う。「延期で良くない?」「いいね〜」「小学校行ってからも「久しぶり〜」とか言って会ってから行けばいいよね〜」「じゃ、卒園遠足って名前やめて「お久しぶり遠足」とかに名前変えない?」「ひさえんにしよう!」「ひさえん楽しみだな〜〜!!!」と言う結末。 その様子が今も2月から踏み入れていない園舎の黒板に記されたままである。 さらっと切り替わったら、今を存分に楽しむ子どもたち。
それに比べて、大人がしたことは、、、、 学校が休校になったら勉強が追いつかない、そうしたら、その先大変だ!学校学校なんとかしておくれ〜テクマクマヤコンテクマクマヤコン!宿題がいっぱい出て勉強やらせてくれますよ〜に〜!端末配ってリモートでどんどん勉強遅れないで進めてくれますよ〜に〜!! (昭和ネタ含まれております)
である。
どこぞの幼稚園では「ソーシャルディスタンスのお勉強」をさせる為に、至るところに
2mが測れるような仕組みを施してからの受け入れ。
う〜〜ん。。。。 よっぽど、大人の方が先読みしているつもりでも、今現在この瞬間だけを生きているようにしか思えなかったことを話した。
Telacoyaの子どもたちは、この間、2月からほぼ建物には入らずに、雨の日も風の日も酷暑の中も、ひたすら海と木陰で過ごして来た。
それが今出来ることだから。
結果、みんな以前にも増してたくましくなった。この間にたくさんのことを新しく学んだ。それは、、、、 天気や風を今までよりもっと感じるようになったり、
濡れた水着を友だちに協力してもらって着替える方法だったり、
砂だらけの足をパンツに接触せずに足を通す方法だったり、
濡れた水着の処理の方法だったり、
リュックから何を出しておけばやりやすいのか?だったり、
帽子がびしょびしょになれば手拭いを帽子の代わりにすれば良いと言う気づきだったり、
雨が降っても濡れずにお弁当を食べられる場所を見つける方法だったり、、、、、、 スノコの上でシャワー浴びてちゃ身に付けられなかった技だ! 足がキレイだったら、パンツを履くのも簡単だもの! いつかスノコの上でシャワー浴びて着替える時に、感じるんだろうな〜
「なんて楽チンなんだ!」って。
「今を生きる」「今をきちんと生きている」子どもたちに、大人は敵わないよ。